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J.Sバッハ
<有名なコーヒー・カンタータ>
ヨハン・セバスティアン・バッハは、1685年3月21日にドイツで生まれ今から250年前の1750年7月28日享年65歳で亡くなっています。
今年はバッハ没後250年にちなんだ各種の企画や催しが目白押しです。
バッハの偉大さは、どこの小・中学校の音楽教室にも壁に掲げられていた肖像画で、誰もが知っている作曲家です。
羊の毛のような、いかにも豪華で高貴なかつらをかぶり、堂々とした視線で高いところから皆を見つめていたことを、大人になった今でも思い出します。
バッハは、カンタータ第211番でコーヒーをその主題に取り上げています。
コーヒー・カンタータと呼ばれるその曲が発表されたのは1732年ごろだと言われています。
ピカンデルという人の作詞したものに曲をつけたものです。
当時コーヒーを飲むと不妊になるといって、ご婦人にはコーヒーを飲ませないようにしようという動きがあったようで、バッハはコーヒー・カンタータで、やんわりとそんな世間のコーヒー論議を皮肉っています。
コーヒーをやめなさいと言う父親に対して、娘はうたう。
「おおー! コーヒーの味わいのなんと甘いことよ! 1000のキッスよりも愛(いと)おしく、マスカットから作ったワインよりもはるかに甘い! 私はコーヒーを飲まなければなりませぬ。
だから、もし、誰かが私をよろこばそうとお思いなら、私にプレゼントなさいませ!」
父親は、いきりたってうたう!
「もし、おまえがコーヒーをやめないのなら、どんな婚礼の宴にも行かせないし、散歩にも出してやらないぞ!」
でも、娘はきっぱりとうたう。
「いいえ、飲みますは!私にコーヒーを下さい!」
こんな世代間闘争を呼び起すほどに当時のコーヒー・ブームは加熱していたようです。
バッハ自身、大のコーヒー好きだったと言われています。
ベートーヴェン
<コーヒー豆の粒を数えた>
ベートーヴェンは17歳のとき生地ボンをはなれて、あこがれのモーツアルトにあうため、ウィーンに行きました。
1787年モーツアルトは31歳でした。
だが、モーツアルトはベートーベンの演奏にあまり関心を示さず、即興演奏にだけ感心した。
作曲家としてのベートーヴェンの未来を漠然と感じ取ったのかもしれない。
ふたりはそのまま別れ、故郷に帰ったベートーヴェンがふたたびウィーンに出てきた1792年には、すでに
モーツアルトは世を去っていました。
ベートーヴェンはハイドンによって認められ、その弟子入りのため再びウィーンに行ったのです。
ウィーンは、ロンドン、パリとともに、カフェがもっともさかえた街として知られています。
ロンドンだけは歴史のなかで脱落(紅茶がさかえる)したけれども、ウィーンとパリはいまでもカフェの街です。
ベートーベンのコーヒー習慣は、成年の日のかれを迎えた街の雰囲気の中で身につけたのでしょう。
かれは朝食のコーヒーを自分できちんと独特の手順にしたがって淹れ、お客にももし気に入った人々であれば
、自分で淹れたコーヒーでもてなしたようです。
コーヒー一杯分に豆を60粒、性格にかぞえてトルコ式ミルでひいたといわれています。
このトルコ式ミルは、ドイツではベートーヴェン・ミルと呼ぶこともあるようです。
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